見出し画像

【牛乳のはなし】日本の牛乳容器 vol.3

牛乳を取り扱う博物館というのはなかなか珍しいと思いませんか?牛乳博物館noteから牛乳にまつわる様々なテーマを扱う記事を配信していきます。
第一弾として取り上げられるのは、牛乳の容器。牛乳が普及する前はどのような容器を使っていたのか、そして現代の容器になるまでどのような歴史があったのか…。知っているようで知らない、そんな牛乳の容器についてのお話です。

【前回のお話はこちら】
https://milk-museum.note.jp/n/n4a5de922cfed


江戸時代、その後


 前回、江戸時代初期に盛岡藩で牛乳が飲まれていたことをお話しました。しかし、この慣習は広く伝わらず、途絶えてしまったと考えられています。
次に乳文化の歴史が残っているのは、1840年ごろ、徳川斉昭の時代です。

現在の弘道館

 徳川斉昭は水戸藩第9代藩主であり、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の父です。斉昭は弘道館の一角で牛を飼育させるなど、牛乳の効能に興味を持っていたようです。

 医学館の医師たちに牛酪とよばれるバターのようなものを作らせ、藩の人々に与え、牛乳による健康増進に力をいれていました。また、水戸の神崎にガラス製造所をつくり、「ギアマン牛乳びん」を考案したとも言われています。

牛酪(イメージ)

明治時代


 明治時代になると、ようやく牛乳販売店という概念が生まれてきます。1870年ごろ、東京で坂川當晴(まさはる)という人物が牛乳販売所を始めました。 当時の牛乳容器はどのようなものだったでしょう?

 当時の牛乳販売は配達人が顧客の元に配達していくものでした。最初期は大きなブリキ缶に牛乳を詰め、量り売りの形式で販売していました。客先につくと、客に食器を用意してもらい、そこに注ぎ入れたそうです。

坂川牛乳店が牛乳を量り売りする様子(大日本牛乳史より)

1877年ごろになると、小型のブリキ容器が登場します。輸送に使用していたブリキ缶が小型化したような形です。
(このブリキ容器は弊館に展示されているので、是非見に来てください!)

ブリキ製牛乳容器(牛乳博物館 所蔵)

このブリキ容器はしばらく使用されたと考えられますが、1885年ごろに施行された法律によって「鉛・銅その他有害な物質を用いてはならない」とされ、徐々に消えていきました。こうして金属容器から有害物質が出てこないガラスびんにバトンが渡されることになるのです。

ガラスびんの時代


明治時代になると庶民でも牛乳を飲む機会が増え、牛乳容器も多様性の時代が訪れます。(とはいってもまだ牛乳は高価な品物ですが…)

次回はガラスびんの形についてお話します。

これからも、牛乳に関するお話をお届けしていきますので、ぜひ引き続きご覧ください。

この記事が参加している募集

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!